[ いつかふたりでこのみちを ]
楓  
「……以上が当旅館の設備の配置と説明で御座いますが、御客様の方から他に何か、御質問は……」
 久々に故郷を訪れた愛子を迎える母さながら暖かく和やかな、胸に沁みとおるような眸を行儀よく伏せた仲居に項で一つ凛と束ねている黒髪と共に深々と御辞儀されて、おもわず俺は有りません、と、肘なんか延ばして厳めしく応じてしまった。
「あら……およしくださいませ。御客様に礼を尽くされてしまっては従業員が困ります」
 はんなり指を充てられた頬と美しく描かれた眉が微苦笑の形を造ってみせる。
「う、すみません」
「宜しいんですよ。お心遣い有難く頂戴致します。どうぞ遠慮なく寛いでゆかれてくださいませ」
「そうさせてもらいます。あ、夕飯って、確か部屋に運んでもらえるんですよね?」
「えぇ、左様です。一階の大広間でも召しあがれますが、それでは此方に御持ちしましょうか」
「はい」
 軽く頷いてから俺は何げなく脇に積まれた荷物を一瞥する。
「それから同室の奴が遅れてきます。えっと、さっき宿帳には俺が名まえ書いちゃったんですけど」
「黒須様……ですね。畏まりました。いらっしゃられた際には御案内申しあげます」
「頼みます」
 客を掴む為の営業戦略的な狡すっからい代物ではない清楚な表情で、仲居は辛子の彩に絣の入った和服の襟を崩さず丁寧に頭を下げてくれた。
「それでは失礼を致しました。ごゆっくり」
 すうっと襖が左右から閉じられていって、まもなく立ちあがったらしい仲居が殆ど衣擦さえ響かせない侭で外の扉から退去してしまうと、一瞬だけ畳の匂に似つかわしい静謐が鼓膜を圧倒する。けれども、そんな心の安らぐ閑寂は永く続かなかった。傍に置いてあった旅用の大きな鞄の底から、がりっと鋭い爪で布を掻いてよこす合図が聴こえてくる。
「ん?」
 げんきよく中を荒らしているらしい様子に俺は呆れながら愁嘆を零した。
「こら、暴れんなったら。あけてやんないぞ?」
 その他愛ない脅迫が功を奏して闇雲な威嚇攻撃が中断したので、おとなしく云う事に従ってくれた御褒美に留具を外して蓋を払いのけてやる。
「おまたせっと……あれ?」
 待ってみたが、すぐさま飛びだしてくる筈の奴は暫く経っても反応が無い。
 今まで解放されたがっていた癖に許可を与えられても表に現れない天邪鬼は、ひょっとして、また例の如く不貞腐れているのだろうか。
 機嫌が傾いでいる理由を想像しかねながら、とりあえず俺は可能な限り優しく語りかけてみた。
「どうしたの」
「……」
 更に躊躇うような沈黙を於いて、そろり、と、紅葉に命を吹きこんだような彩の塊が漸く頭を覗かせてきた。
「ふん」
 先の跳ねた緋の鬣。
 右頬を装飾する十字架の刻みこまれた道化師の仮面。
 綿を想わせる繊細な産毛で覆われて敏捷に方向を変える一対の耳殻。
「……もう」
 掌に乗せてしまえるほど小柄な男の子に化けている摩訶不思議な獣の、妙に好戦的な金水晶の隻眸が煌々と燃えて、きりっと俺を睨みあげた。
「ついたのか?」
 そう傲岸に語尾を上げてくる呂律の廻らない唇は、いつだって酷く可愛らしいから、接吻で攫ってしまいたい欲望を密に抑えこみながら顎を曳く。
「着いたよ」
 さりげなく周囲を窺っては俺に舞いもどってくる左眼の奥は警戒より好奇の方が勝っていた。いつのまにか尻尾が夕陽を浴びた稲穂さながら忙しなく背に揺れていたりして、その身体に蟠っている昂揚の度合を教えてくれている。みなれた家を離れて己の前に繰りひろげられる異界に本能を擽られている内に、遂に興奮で我慢できなくなったのか、上着を纏った華奢な四肢が滑るような仕草で這いだしてきた。
 縄張の調査を優先してくれても俺は構わないけれども、それより少しだけ憩う暇を与えてほしい。
 正座を崩して胡坐を掻きながら腕を差しのべる。
「おいでよ、くろす。あっためて?」
「……あほうが」
 悪態とは裏腹に迷わず踏台を蹴りつけた後脚の力で以て鬼灯の弾丸が跳びこんできた。
「ふう……」
 いつか巡りくる春を呼びつけたような暖かい座敷の中央で、ぎゅっと強く抱きしめたぬくもりに頬を預けてしまえば、凍てつく極寒に道程の間ずっと痛めつけられていた指に熱が融けだしてゆく。
「おい、てぃき、つめたいぞ」
 市販の懐炉を敷きつめた簡易暖房の巣で過ごしていた仔猫に誹られて、はっと俺は掌を弛緩させた。
「あ、ごめ……」
「ばか」
 険しく尖った調子で叱責を繰りかえした奴は、けれども囚われた俺の胸元から逃げださない侭で逆に喉やら鎖骨を遠慮なく舐めはじめた。
「えっと……くろす?」
「……さむかったんだろ」
「そりゃあ、まあ、そうなんだけど」
 ざらついた突起が皮膚の表層を濡らして段々と漣の波紋を織りなしてゆく。
「大丈夫だってば」
 性的な成分を含まない慈愛の篭もった舌技に緩々と宥められて俺は口を綻ばせた。
「じぶんのぶんまでおれにかいろをまわしてくるからだ。すこしはあとさきってものをかんがえるんだな。こんなところでかぜなんかひいたら、さすがにどうにもならんだろうが」
 柔らかく項の叢を梳いてやれば、渋々と呟かれる物憂げな旋律が溜息と共に届く。
「ははは、そうなったら一緒に逗留していこうぜ。湯元なんだから病の養生には持ってこいだろ?……何より」
 ちらっと横眼を走らせてみた欄間の真下では和紙を貼られた障子が眺望を隔離していた。密室なのに閉塞を匂わせない理由は贅沢な太い梁に支えられた天井が高く設けられている為だろうか。達筆すぎて殆ど解読できない掛軸の墨痕やら情緒的な桜の絵襖やら予備の湯呑が仕舞われた棚やら、みるでもなく順に映像を移ろわせてゆきながら、くろすの旋毛めがけて俺は囁きおとした。
「……短期間で済むって確証は無いんだし、さ」



[ continued ]